涼宮ハルヒの憂鬱
YouTubeで『涼宮ハルヒの憂鬱』を見始めたら、これが面白いのなんのって、思わず夜を徹して延々繰り返し見続けてしまい、なぜか膝がガクガク震えているなと思ったら、いつの間にか石油ストーブが切れて室内が冷え切っていた。おもわずDVDを買ってしまおうかと思って、あやうくAmazonで購入ボタンを押しかけたが、思い直して、ぽすれんの予約機能を初めて使ってみることに。「この商品をレンタルするには約2日前後かかる予定です」などと表示されたが、翌日には発送された(代わりにAmazonでは『OP主題歌 冒険でしょでしょ?』と『ED主題歌 ハレ晴レユカイ』と『鶴屋さん』と『喜緑江美里』を注文)。

最初は学園ドタバタものかと思って観ていたのだが、実はバリバリのSFであり、形而上学かと思われるような会話まで登場する。ハードSFの古典的名作や形而上の諸問題を作中に取り込むこと自体は、アニメやライトノベルの世界では、べつに新しいことでもなんでもないのだが、過去の古典的名作においてそれぞれ重大で深刻な問題として語れたものが、実にさらりさらりと何の気負いもなく、作中の数ある要素のひとつとして組み込まれており、しかも手当たり次第に詰め込んだようでいて、バランスよく収まり、エンターテイメントとして成立しているのが凄い。ある意味アイロニーだが、でも少しも嫌みじゃない。

もう10年以上も前の話になるが、僕は学生のひと頃、「何故この世界は存在するのか」という疑問に悩んだことがあった。この世界に生まれて育ってきたために、当たり前のように思って過ごしていたが、よくよく考えてみると、このような宇宙が、物質が、空間が存在するということ自体が非常に不思議なことである。全く何もない「無」であることの方がまだ自然である。この世界が存在する理由が全く解らない。それどころか、実際に存在するかどうかすら怪しい。そもそも「存在する」ということはどういうことなのか? これは非常に深刻な問題である。例えば、美大生が画家になろうとして絵の技術を上げようと真剣に努力するとする。真剣になればなるほど、世界の存在が確かなものであってもらわなければならないという思いは募る。あやふやなもので、いつ消えても不思議でないもの、努力や苦労をするほどの価値のないものであってはならいない。世界の存在が確定的なものと認識できるまでは、到底そこで地道な努力を積むなどという行為には至れない。既に受験その他で、さまざな労力を費やしていたが、世界の存在自体があやふやで夢のようなものではないか、なんら価値のないものではないか、という疑問によるガッカリ感、あるいは騙されたような気分に支配された。だから、その当時の僕は、何かに生涯を費やして努力して生きる人の姿を見るのが怖かった。生涯を美術展や各種コンクールに出品するため制作活動を継続している画家の方々を見ると、いわゆる「嘔吐」しそうになるので、できるだけそういうものは見ないよう心がけた。むろん、まともに絵を描こうなどとは思わない。出会う人相手に哲学的な珍説を振りまく等の迷惑行為を行なって異様な電波を発していただけだった。

やがてその疑問が頂点まで達すると、まるで馴染みのない異空間に突然放り込まれたような錯覚に陥り、とくに眠りから覚めたときが顕著で、ここが自分の住む世界であることを思い出して平均感覚を取り戻すのに数分を要した。その数分間はどっちが上だか下だかわからない状態で、精神的にかなり追いつめられたものである。形而上学、存在論、認識論などの哲学書を買いあさった。宇宙論の本や科学雑誌も読みあさった。SFでは、あれだな、クラークの『幼年期の終わり』とか『都市と星』、レムの『ソラリスの陽のもとに』などを読んだわけである。分厚い哲学書の方は、結局読破したのは一部の書だけで、内容について正しく把握するには、相応の年数が必要だと感じ、極度の精神的不安定の前ではかえって逆効果だった。何より哲学書全般の文体に嫌悪感を感じていた。それらは非常に不愉快であり(飽くまでも自分にとってだが)美しなかった。なお、大学の哲学の教授、講師に突撃するという派手なこともやったが、哲学と言っても教育哲学とか、法哲学様々な分野があり、専門のところに突撃しないと全く話がかみ合わないことを知った。そして逆に運良く議論好きな先生に当たると、実際は、非常にうっとおしいということも知った。そのようなものからは遠ざかり、かわりに『マルテの手記』を繰り返し繰り返し読み続けた。まるで自分のことのように共感した。何より大山定一訳の文章は美しかった(なお、他の人と話したら、全く違った部分に惹かれていたようで、作品の見方は人それぞれなんだなとしみじみ思った)。

そのような疑問は何ら解消することなく学生生活が終わり、ウィーン美術史美術館を訪れた。自分にとっては初めて訪れた大美術館だった。初訪時の感想は憶えていないが、他にやることもなく入場料も安かったのでかなり頻繁に通った。大美術館を繰り返し訪れることの重要性は昔からよく言われているが、その理由と効果を言葉で説明するのは難しい。膨大で良質のコレクションがいつでも(ほぼ)同じ場所に掛けられているところを、何回も同じルートを歩いているうちに、とにかく何かが変わるのである。ウィーン美術史美術館は他の大美術館と比べると、入場者の数はずっと少ない。行列が出来ているところなど見たことがなかった。異論もあるだろうが、コレクションは地味で渋めの作品が多い。ただし作品の仕上げなどの平均的な技術レベルはどの美術館よりも高いと思う。それらの作品が描かれた当時、芸術家という概念はまだ希薄だった。あるいは現在の芸術という概念そのものが無かったと言ってもいい。職人の技に満ちた通路を歩いているうちに、かつて頭の中の9割を占めていた、世界の存在へ疑問は消え去り、その後、一切、先のような悩みを持つことはなくなって今に至る(自分にとっては、三次元世界太陽系第三惑星の住人としての自我を確立した場所であるから、件の美術館は特別な存在である)。

そのような過去の経験から、『涼宮ハルヒの憂鬱』を観る上では、どうしても哲学的な側面に注目してしまう。ハルヒが子供の頃に訪れた球場で、自分のちっぽけさを感じ、その後、奇行に走って周囲とのコミュニケーションを失ってゆくあたりは、なんとも共感するのだ。あるいは、「・・・この世界は"ある存在"が見ている"夢"のようなものなのではないか・・・」と仮定しつつ、「僕はこの世界にそれなりの愛着を抱いているのでね」と言ったあっさりした物言いで、現状の維持のための役割を果たし続けるという古泉のあっさり具合。自分の能力に目覚めたときは、世界の存在に関して相当の苦悩があったらしいことも匂わせている。まあ、自分にしても、何でまだ生きているのかと問われれば「この世界にそれなりの愛着を抱いているのでね」としか言いようがない気分だが。

しかし、そういう話は別として、僕が非常に感銘したのは、むしろそれらの要素が爆笑とも言える可笑しさで描かれている点である。かつて深刻な悩みとともに読んだ小難しい本が、実に爽やかに通り過ぎてゆくような気持ちよさがある。作中のハルヒの談ではないが「萌え要素の重要性」を思い知った。哲学的な語りの嫌みな部分が、「萌え」の挿入によって緩和されている。同時に哲学語りが「萌え」への恥ずかしさも中和している。哲学書の恥ずかしさと萌えアニメの恥ずかしさが、両者が融合することによって、打ち消し合ったと言える。ちなみに、正直に言うと、哲学書と萌アニメのどっちがより恥ずかしいかと言えば、今の自分には哲学書の方が恥ずかしい。たぶん今、高名な哲学者の本を開いたら、自分は気恥ずかしさで数ページも読み進められないだろう。

さて、アニメ版を観たのは約2週間前のことであり、その直後に現在8巻まで出ている原作文庫をAmazonで一気買いして読みまくりつつ、全巻読んでしまったが、1巻のあたりで感じた哲学的要素はやや後退し、後の巻はタイムトラベルを中心として普通のライトSF&ミステリのような読み物になる。と言っても、飛び抜けて面白いことには変わりない。冬はドライアイの症状が酷くなるので、風呂に入りながら読んでいたが、思わず長湯してしまう。特にシリーズ中、最も紙数の多い『涼宮ハルヒの陰謀』を読んで風呂から上がったときは、足の裏の皮が凄い勢いで捲れ上がって気持ち悪くなった。



| 書籍・雑誌・漫画・アニメ | 02:45 AM | comments (0) | trackback (0) |










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