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画術にまつわる文献 08

miyabyo さんのコメント
 (2007/09/04 05:06:03)

アンドレア・マッティオーリ(Mattioli, Pietro Andrea / Matthiole, Pierre André)[1501-1577] 伊国
 IL DIOSCORIDE燹悒妊オスコリデス』, I DISCORSI燹慙席検, I COMMENTARII燹愧躰疔棔戮3冊が有名。
 イタリアで彼以前にもディオスコリデス『薬物誌』は翻訳出版されていた(ディオスコリデスの著書は、1478年にピエトロ・パドヴァーノ[Pietro Padovano]が初めてラテン語に翻訳して出版した)が、彼の伊訳版がその後の植物学や医学に影響をもたらすのは、ディオスコリデスの書に載っている薬草を同定するとともに、それに相当するマッティオーリの時代の現状に言及して、植物学として役立つ書に蘇らせたことにある。

『Il Dioscoride dell' eccellente Dottor medico』(1548)アンドレア・マッティオーリ[1501-1577] 伊国
 マッティオーリは植物学者として知られていますが、もともとは医者でした。シエナ出身で、両親とともにパドヴァに移り、そこで医学を修めました。その後スロヴェニアとの国境にあるゴリッツィア(Gorozia)やウィーン(Vienna)で主任医師をする傍ら植物の研究に没頭した。その後その集大成としてトレントでまずこの書を著した。

●Mattioli, Pietro Andrea / Matthiole, Pierre André, Petri Andreae Matthioli medici senensis Commentarii, in libros [禁止用語?6を意味する伊語] Pedacii Dioscoridis Anazarbei, de medica materia ... , Venise : Vincenzo Valgrisio, 1554.
デジタルファクシミリで所持。 http://www.bium.univ-paris5.fr/histmed/medica/cote?00823
「マッティオーリの注釈」として有名なこの書こそ絵画技法史又は絵画技術史として重要。
紀元1世紀のディオスコリデス『薬物誌』(この項参照)の伊訳に際し、その書に載っている薬草を数百種同定するとともに、それに相当するマッティオーリの時代の現状に言及している部分にこそ絵画技術史として価値がある。仮にこの書がなかったならば、私たちが今日知っている「テレピン」が時代とともに実際はどの植物のことを云っているのかを知ることに難儀したに違いない。この書の重要性は、Merrifierd, 序章の「Resins」を参照のこと。


●Mattioli, Pietro Andrea,Kreutterbuch desz hochgelehrten vnnd weitberühmten Herrn D. Petri Andr Mattioli, Zum andern mal auss 1590.
ドイツ語訳 デジタルファクシミリで所持。
http://opac-scd-ulp.u-strasbg.fr:8090/opac/cgi/index.pl?PROFILE=USER-FR&DIRECT_NOTICE=1&FROM_IDENT=1&TABLE_KEY=09064&0=399830
 
Bock, Hieronymus (1630) Kräutterbuch. In Verlegung Wilhelm Christian Glasers Buchhändlers.


●Mattioli, Pietro Andrea / Matthiole, Pierre André, Petri Andreae Matthioli,... Opera quae extant omnia, hoc est Commentarii in VI libros Pedacii Dioscoridis Anazarbei de medica materia, adjectis in margine variis graeci textus lectionibus... qui Dioscoridis depravatam lectionem restituunt, nunc a Casparo Bacchino,... post diversarum editionum collationem infinitis locis aucti, synonymiis quoque plantarum et notis illustrati ; adjectis plantarum iconibus... de ratione distillandi aquas ex omnibus plantis... Item, apologia in Amatum Lusitanum, cum censura in ejusdem enarrationes [necnon praefatione Francisci Parthini Roboretani]. Epistolarum medicinalium libri quinque ; Dialogus de morbo gallico... , Francofurti : ex officina typographica N. Bassaei, 1598.
デジタルファクシミリで所持。 http://www.bium.univ-paris5.fr/histmed/medica/cote?00825

●Mattioli, Pietro Andrea / Matthiole, Pierre André, Les Commentaires de M.P. André Matthiole,... sur les six livres de la matière médicinale de Pedacius Dioscoride,... traduits de latin en françois par M. Antoine Du Pinet... augmentez... d'un Traité de chymie en abrégé;... par un docteur en médecine, Derniere édition, Lyon : J.-B. de Ville, 1680.
 デジタルファクシミリで所持。 http://www.bium.univ-paris5.fr/histmed/medica/cote?extbsgfols84inv123  
○Dioscorides, P., Acerca de la rnateria medicinal y de los venenos ntortígeros, edición facsimil de la Salamanca (1556), trans. A. de Laguna, Ediciones de Arte y Bibliofilia, Madrid (1983)
 1556年にスペインで翻訳されたものの復刻版
                 参考
●アグネス・アーバー『近代植物学の起源』月川和雄 訳 八坂書房1990
 1470〜1670年間の西洋本草学史を解説した古典的書として知られる。ただし、マッティオーリのことはあまり詳しくない。
○ Francesca, Sboarina, Il lessico medico nel Dioscoride di Pietro Andrea Mattioli, Frankfurt/M., Berlin, Bern, Bruxelles, New York, Oxford, Wien, 2000.
●Ferri, S. /Fausti, D./ Zemanek, A./ Credaro,V. e altri , Pietro Andrea Mattioli, Siena 1501- Trento 1578. La vita e le opere, con l'identificazione delle piante, Perugia, 2001.
マッティオーリ及び彼の著書のことを知りたい方には必読。
               植物学関連
『インド産の単純薬、薬物、医薬品に間についての対話』1563年ダ・オルタ インド
○Horto, Garcia ab[da Orta], Coloquios dos simples, e drogas he cousas mediçinais da India .... , Johannes de Endem, Goa, 1563.  'simples' とは「薬草」を意味する。
●Da Orta, Garcia (trans. Clements Markham), Colloquies on the Simple and [禁止用語ではじかれた単語] of India, Indian Medical Science Series No. 5, London, 1913(rep. Sri Satguru Publicatonis Delhi-India, 1987).
 この英訳本は、アグネス・アーバーが「『対話』は実際十分研究する価値があり、英語による現代語訳がでていることは幸いである。」(邦訳84頁)と云ったその書を再版したもの(但し、複写版のために、見開き状態の文字の歪みが随所にあり、一見、海賊版のよう)。
 ≪「黄金のゴア」は、1510年アルブケルケの手に陥ち、ポルトガル領インドの首府となる。1534年この町に来たのが、ガルシア・ダ・オルタ[アブ・ホルト、アブ・オルト、またはデル・ウエルテ]で、タグスから出航し、六ヶ月にわたる航海の後インドに至った。ダ・オルタがインドで有益な仕事をするための準備は万全だった。いくつかのスペインの大学で医学を学んでいたからで、リスボンで講義をしたこともあった。ゴアでは開業医となってめざましい成功を収め、富を蓄えた。‥‥四半世紀以上にわたって東洋の薬剤を用いる経験を積んだ後、『インド産の単純薬、薬物、医薬品に間についての対話』という著書を著した。それは1563年ゴアで出版され、インドで印刷された最初のヨーロッパの書物のひとつとなった。その書物は植物学の歴史の上で特別な位置を占める。というのは、それが対話形式で書かれているからで、その対話のなかで、ダ・オルタはある程度は「アラビア学者」を代表しているともいえる。‥‥一方、対話の相手は「ギリシャ学者」の唱える見解に傾いている。‥‥スペインからはるか遠くの国に居を定めていたダ・オルタは、自身の見解をこれまでになく思いのままに表明することができた。事実、『対話』のひとつに書いている―「私だって、スペインにいたときには、ガレノスやギリシャ人にそむくようなことは敢えて何も言わなかった」。≫(邦訳83-84頁) 
 16世紀に至っても、ヨーロッパの医学界ははるか昔のガレノス医学を手本としており、正面きってそれに異を唱えることは困難だった。マッティオーリは体制側(ガレノス医学)に立つ人間であった。


『素描論』1549年 アントン・フランチェスコ・ドーニ
○Doni, A. F., Disegno partito in più ragionamenti, ne’ quali si tratta della Pittura, e Scultura, de’ colori, de’ getti, de’ modelli, . . . ., Venezia, 1549.


 『美術家列伝』(1550)ジョルジョ・ヴァザーリ 伊国
 オリジナルは現存しない。
●Vasari, Giorgio,“Vasari on Technique”, Dover, 1960.
●『ヴァザーリの芸術論 「芸術家列伝」における技法論と美学』 Vasari,Giorgio 著 辻茂 等訳, 平凡社 , 1980
●ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』平川祐弘 他共訳 白水社(1982)
●ヴァザーリ『続ルネサンス画人伝』平川祐弘 他共訳 白水社(1995)
○ヴァザーリ『ルネサンス彫刻家建築家列伝』森田義之 監訳 白水社 , 1989
             研 究
●裾分一弘『ヴァザーリの「美術家伝」の二つのテキストについて』美術史学会1968年冬
○Boase, T. S.,“Giorgio Vasari, The Man and the Book”, Princeton University Press, 1979
 T. S. ボウズ『ジョルジュ・ジョルジョ・ヴァザーリ、人と著書』現在もこれを越える書なしという。
○Rubin, Patricia Lee, Giorgio Vasari Art and History, Yale Univ.Press , 1995
○ロラン・ル モレ[Roland Le Mollé ] 「ジョルジョ・ヴァザーリ:メディチ家の演出者」平川祐弘 平川恵子 訳 白水社2003


 『金属物質について(冶金術)』(1556)ゲオルグ・アグリコラ (1494-1555) 独国
 原本はラテン語、全12巻。ドイツ、ザクセン生まれ。ライプツィヒ大学卒業後(ギリシャ語を学ぶ)にイタリアに留学(医学・哲学)し、医者としてボヘミアの有名な鉱山町ヨアヒムシュタールに滞在して(1527-31年)、町医者をしながらこの採鉱・冶金技術を体系化した書を書く。1546年刊の『石の性質について』の書もある。ケムニッツに移っても研究を続けた。没後出版。 オスマン・トルコ制圧により、ハンガリーの銅鉱山からアズライト供給が途絶えたことを彼は伝えている。
●Agricola, Georgius, De re metallica, 1556 
http://archimedes2.mpiwg-berlin.mpg.de/archimedes_templates
Agricola, Georgius, De re metallica, 1556 の△印を選択し、画面左の画像をクリックすると活字化した画面が右欄に出ます。文字化した中の単語についても、その上をクリックすると、別途辞書に飛び、その意味も判ります(但し、日本語はありません)。また、右上の「search」の「show page」をクリックすれば、原本の拡大画像が出ます。[size]は最大3倍まで拡大可能で、ディティールまでよく見えます。
大学図書館等のサイトで、同様な稀観本のデジタル画像化が盛んに行われており、随分便利になりましたが、多くのそれは画像容量が乏しく、そのために拡大しても判読し難いものですが、このサイトは研究に耐えうるだけの画質を提供してくれています(一部破損したページがあるのが残念ですが)。
●Hoover, H. C. / Agricola, Georgius.“De Re Metallica”, Dover(1950) 木版画多数
●『近世技術の集大成 デ・レ・メタリカ 全訳とその研究』三枝博音・山崎俊雄 訳 岩崎学術出版社1968 


『絵画に関する対話』(1557)ロドヴィコ・ドルチェ(1508-1568) 伊国
 ヴァザーリの『画人伝』の向こうを張った書としてつとに有名な書の全貌が、やっと日本語で読めることになった。
○Dolce, Lodovico, Dialogo della pittura, Venezia, 1557.
●ロドヴィーコ・ドルチェ『アレティーノまたは絵画問答−ヴェネツィア・ルネサンスの絵画論−』森田義之・越川倫明 中央公論美術出版2006年
 アレティーノは実在した人物ではあったが、実際にドルチェと問答したわけではなく、あくまでも空想問答。ヴァザーリが『美術家列伝』のミケランジェロの評価など、多少修正して改訂版を出す原因のひとつとなった書。
            参照  
●ローリアーヌ・ファレイ・デスト「ドルチェの『絵画問答』と16世紀ヴェネツィアの絵画観」森田義之・小林もり子 訳、『五浦論叢』茨城大学五浦美術文化研究書紀要第12号2005年pp.151-181.
 この論文は、ドルチェの仏訳(1996)につけられた序論の全訳


 『ロドヴィコ・ドルチェの色彩に関する対話』ロドヴィコ・ドルチェ(1565)伊国
●Dolce, Lodovico, Dialogo di M. Lodovico Dolce ... dei colori, 1565. (全158頁)
『Dialogo di M. Lodovico Dolce nel quale si ragiona delle qualità, diversità e proprietà dei colori』
 http://www.bivionline.it/en/coloriListOfAuthor.html  より入手可


 『コロナート・オッコルチの色彩論』コロナート・オッコルチ(1568)伊国
●Occolti, Coronato, Trattato de' colori di M. Coronato Occolti, 1568. (全22頁)
 http://www.bivionline.it/en/coloriListOfAuthor.html  より入手可


『わが生涯』ベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini:1500-1571)
 ヴァザーリをして「恐るべき男」と不快を示し書かせた、破天荒で殺人者でもあった人物こそ、この金細工師兼彫刻家チェッリーニである。この場は、画術にまつわる文献としているので、挙げる必要は無いのだが、虚実を交えたこの書の面白さに免じて許されたし。1558〜66年間に書かれたらしいが、1728年にナポリで出版されるまで、誰からも手直しされることなくひっそりオリジナルのまま残されていた。かえってそのことがこの書にとって幸いしたといっていい。
●Cellini, Benvenuto, The Treatises of Benvenuto Cellini on Goldsmithing and Sculpture, tran. G. R. Ashbee, Dover, 1967.
●『チェッリーニ わが生涯』大空幸子 訳 新評論1983年
 岩波文庫からも『チェッリーニ自伝−フィレンツェ彫金師一代記−』古賀弘人 訳(全2巻1993年)として出されている。
               参照
●イヴァン・アルナルディ「チェッリーニとその時代(1〜4)」松本則昭 訳『五浦論叢』茨城大学五浦美術文化研究書紀要第9〜12号2002〜05年


 『休暇荘』(1584)ラファエロ・ボルギーニ(1541-1588)伊国
『ド・マイエルン手記』の書出し(fol.3)に、「絵画に関する書物を探さねばならない。フィレンツェのラファエレ・ボルギーニが著した『休暇荘』」とある。ちなみに、ベルガー版では「を探さねばならない」が「に従わねばならない」となっているが、これは誤り。スマルト‘azzurro di smalto’の初出として最も古いのがこの書とされている。ただし、Thissen, J. / Mühlethaler, B.,“Smalt”によれば、「ペックマン(1864)やその他によると、スマルトはヨーロッパ人の発明だった。彼とメルツェル(Meltzer)は、ボヘミアンのガラス職人クリストフ・シューレル(Christoph Schürer)の発見(1540-60年)だとしている。ヨーロッパの資料は、ゲッテンス/スタウトや最近ではハーリーによって再調査されている。後出の著者達によれば、いわゆるヨーロッバの発見より数世紀前の中東で、ある種のスマルトが最初に製造されたらしい。コバルト鉱石がエジプト及び古典時代にガラスの色着けに使用されたことが、Farnsworth / Ritchie その他 によって十分に立証されている。コバルト色のガラスの起こりは、おそらく琺瑯技術の発生と一致しており、近東を起源とするものと思われる。琺瑯は、溶けやすいように粉末状にされ着色された、ガラスに類似した材料から作られた。」
 現在、西洋絵画で最も古いスマルトの使用例は、ロンドンナショナルギャラリーにあるデリク・ボウツの1455年頃作「埋葬The Entombment」(この情報は、1993年現在)。

○Bolghini, R. ,“Il Riposo”,Firenze(1584)
○Bolghini, R. ,“Il Riposo”, 3vols., Milano(1807)
 エルンスト・ベルガーが参照したのは、このミラノ版。
●Rossi, M. / Bolghini, R. ,“Il Riposo”, Milano(1967)
原文の翻刻編及び脚注編からなる
○Bolghini, Raffaello,“Il Riposo”,Firenze, Hildesheim(1969)西ドイツ


 『絵画芸術論』1584年 ジャン・パオロ・ロマッツォ(Giovanni Paolo Lomazzo) [1538-1600]伊
 マンネリズム時代のイコノロジー、意匠を知るうえで重要。ミラノで1584年に出版されて、14年後の1598年に早速ヘイドックによって英訳されている。この書をド・マイエルンも読める環境にいたはずだが、はたして読んだだろうか?
 ニコラス・ヒリアードの著書『写本装飾術』(1598〜1602/3年頃出版)の始めに、「1598年にパオロ・ロマッツォの絵画に関する書の英訳を出版したR.ヘイドックの要望により[at the request of R. Haydocke who publisht in English a translation of Paulo Lomazzo on Painting 1598.]」と自著を著すきっかけを記している。
○Lomazzo, G. P.,“Trattato dell’ arte del la pittura”, Milano, 1584
 全746頁 2003年現在Books On Demand Onlineで$200
●Lomazzo, G. P.,“Trattato dell’ arte del la pittura, scoltura, et architettura........”, per Paolo Gottardo Pontio, Milano, 1585.
 この原書は、Instituto e Museo di Storia della Scienzaのサイトで公開されていたものである。
●Haydock, R. A.“A Tracte, containing the arts of curious Paintinge, Carvinge and Buildinge,‥‥written first in Italian by Jo. Paul Lomatius,‥and englished by Richard Haydock”, Oxford, (1598), Farnborough, England, Gregg International, 1970 
 訳者のヘイドックは物理専門らしい。また銅版画は彼自身の手になるのらしい。
Harley, “Artists’ Pigments c. 1600-1835” に、「Haydockeがハンガリーのウルトラマリンに言及したとき、彼は間違いなくアズライトのつもりで言っている、しかし、バイスとウルトラマリンのこのような混乱は珍しい。」(p. 47) とある。
○Lomazzo, G. P.,“Trattato dell’ arte del la pittura.‥‥diviso in sette libri‥‥Georg Olms”, Hildesheim, 1968.
○Ciardi, R. P. / Lomazzo, G. P. ,“Scritti sulle arti”, 2vols. In vol.2, Firenze, 1973.
その他の書:LOMAZZO, Giovanni Paolo, Idea del tempio della pittura. Italian (Italy), 1590.


 『絵画真範』ジョヴァンニ・バティスタ・アルメニーニ(1587) 伊
○Armenini,G. ,B. ,“De’ veri precetti della pittura”, Ravenna(1587)
●Olszewski, J. / Armenini,G. B. ,“On the True Precepts of the Art of Painting”,Burt Franklin & Co. ,Inc(1977)
○Armenini, Giovanni Battista,“De' Veri Precetti della Pittura. Edizione a cura di M. Gorreri. Prefazione di E. Castelnuovo”, Torino, Einaudi, 1988.


『絵画神殿のイデア』1590年 ジャン・パオロ・ロマッツォ
○LOMAZZO, Giovanni Paolo, Idea del tempio della pittura, Milano, 1590.


 『色彩論』Antonio Calli 1595年
●Calli, Antonio, Discorso de’ colori d'Antonio Calli, 1595.
Edizione parziale in Scritti d'arte del Cinquecento, a cura di P. Barocchi, tomo II, Milano-Napoli 1973.
 http://bivio.signum.sns.it/index.php にて入手


『写本装飾術』ニコラス・ヒリアード 1600年頃 (1598〜1602/3) 英国
Nicholas Hilliard (1546/7-1618):
彼はこの書を書くことになった理由を「1598年にパウロ・ロマッツォの絵画に関する書の英訳を出版したR.ヘイドックの要望により[at the request of R. Haydocke who publisht in English a translation of Paulo Lomazzo on Painting 1598.]」と書の始めに記している。ラピスラズリについてこう述べている。「写本彩飾にとってもっとも深みがあってもっとも高価な青は、ヴェニスのウルトラマリンである。私はわずか4グレインに3シリング8ペンス、1オンスで11ポンド10シリング、支払った。また、品質の劣るものは、2シリング6ペンス、1オンスで7ポンド10シリングを要した。」あまりに高いので、「その代用として、我々は最高のスマルト、色の淡さ加減によって6ないし7等級ある様々な種類のブルー・バイスなどを使用する。」といっている。
○Norman, Ph. / Hilliard, N.,“A Treatise concerning the Arte of Limning”, First volume of the Walpole Society, 1912.
○Nicholas Hilliard (R.K.P. Thornton), The Arte of Limning, Paul & Co Pub Consortium, 1981.
●Nicholas Hilliard,“Nicholas Hilliard’s Art of Limning”,Trans., Kinney, Arthur F., Northeastern University Press, Boston, 1983.
○Nicholas Hilliard, The Arte of Limning, Harry Ransom Humanities Research Center, 1992.


おっつけで私のリストから取捨選択しましたので、あまり行き届いていないことをお詫びしておきます。
ではまた。


画術にまつわる文献 番外編

miyabyo さんのコメント
 (2007/09/13 03:29:29)

まずは訂正・補足から。
「画術にまつわる文献06」の
「とはいえ、この手帳が書かれた16世紀の前に、つまり第1のルネサンスである1200年代の文芸復興(ほとんどはギリシャ古典の翻訳)と1400年代の大いなる古典復興の間で、どのようにして画家は職人から芸術家への道を歩んでいたのか。それを伺い知れる書」
の「1200年代」は「1100年代」です。
少し後に「12世紀のルネサンス」と書いているので変だと思われたことでしょう。



「画術にまつわる文献08」の
マッティオーリのところの、
[禁止用語?6を意味する伊語] は当然ながら[禁止用語?6を意味するラテン語] です。ちなみに、禁止用語とは「エスEX」

「私たちが今日知っている「テレピン」が時代とともに実際はどの植物のことを云っているのか」は、
「私たちが今日知っている「テレピン」が時代とともに実際はどの製品のことを云っているのか」です。

ダ・オルタの書名で[禁止用語ではじかれた単語] とは、ローマ字で記せば、DORAGGU

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私が挙げた文献中で管理人さんが「散財」されたと「フリートーク」の方でいわれていた

山本義隆『一六世紀文化革命』

などにまつわる話。

この書については今後インターネット上で、あるいはいろいろ話題に上るかもしれませんが、著書に劣らず著者の人物像も、以前より何かと話題になっていたようです。
私がこの著者を知ったのは、2003年でした(実は1969年には東大全共闘議長としてその名は知っていたはずでしたが)。といっても、その記憶すら曖昧で、ただ、朝日新聞の朝刊で読んだ、山本義隆氏の「磁力と重力の発見(みすず書房)」に対する養老猛司氏の書評が、非常に奇異であったという記憶でした。
『一六世紀文化革命』で保たれている視座(そこから出てくる論点)が、まさしく画術及びその周辺を調べているうちに私が採り始めた視座に近いと思えたこともあって、親近感を持ち、少しインターネットで調べるうち、その記事の引用がありました(そのまま引用しておきます)。

 「…山本氏のこの著作は、すでに毎日出版文化賞を受賞されている。それにさらに朝日新聞社から大佛次郎賞が授与される。そのことから見ても、本書自体の価値がわかると思う。評者自身、両賞の選考委員を兼ねている。西欧科学の歴史を語るとき、日本からの視点はきわめて貴重である。どのような文化もそれ自体の盲点を持ち、西欧も例外ではない。著者の目はそこをみごとに見渡す。次に個人的な意見を付け加える。私自身はこの著作をこれ以上には論評する気がない。それは右の価値評価とは別である。強く表現するなら、選評を拒否する。私自身は、山本氏と同じく60年代末に、演じた役割の軽重はあれ、同じ東大闘争に巻き込まれた。その結果、私は自分の考え方、さらにその後の研究者としての生涯に多大の影響を受けた。私はそう思っている。その結果としての私の思想からすれば、まったく別な論評も可能である。しかしそれは、かならずしも書物自体の論評ではないという性格のものになるはずである。そうしたことを熟慮した結果、背景を含めた選評は拒否するしかないという結論に至った。それ以上の説明はいまは不可能だし、そもそも紙面も不足である。読者のご了解を乞う…」(2003年12月18日朝刊)

このあたり(「60年代末」)を書き始めると、私自身の1970年前後当時のことも色々思い出されるわけですが、当座の目的とも外れますので省きます。
ただ、はっきりしていることは、私は私でその当時の潮流に「多大の影響を受け」(良い意味で)、それ以降自分の「知」を解体し、いつしかその再構築の作業を始めていたこと、そしてそれは今も続いているということでしょうか。

さて、上述の「視座」とは何か?

『一六世紀文化革命』1の目次は

序章―全体の展望
第1章 芸術家にはじまる
第2章 外科医の台頭と外科学の発展
第3章 解剖学・植物学の図像表現
第4章 鉱山業・冶金術・試金法
第5章 商業数学と16世紀数学革命

ですが、各章で扱われている出来事は、それぞれの分野では更に詳しい内容の文献もあるわけです。

例えば「第2章 外科医の台頭と外科学の発展」で展開されていることは、

●Roger French, Medicine before Science: The Buisiness of Medicine from the Middle Ages to the Enlightenment, Cambridge U.P., Cambridge-New York, 2003.

また、「第3章 解剖学・植物学の図像表現」の解剖学の図像表現の方では

●Domenico Laurenza, La ricerca dell'armonia: Rappresentazioni anatomiche del Rinascimento, Olschki, Firenze, 2003.

等がそれに当たるのではないでしょうか。
さらに、医学業界を包括する最近の研究としては、

●Laurence Brockliss, The Medical World of Early Modern France, Oxford University Press, 1997.

●Pelling, Margaret / White, Frances, Medical Conflicts in Early Modern London: Patronage, Physicians and Irregular Practitioners 1550-1640 (Oxford Studies in Social History), Publisher: Oxford Univ Pr, 2003.

等があり、いずれも山本さんの参考文献には載っていないものです。
(ここに挙げた4文献は、実はド・マイエルンのことを調べる過程で背景として知っておきたいと思って入手したものでした)

それぞれの分野で個別に変動があったように一見思える現象も、いくつもの分野の動向を丹念に辿ることで、いくつかの共通するキーワードがいぶり出され、一定以上の説得力を帯びてくる。
16世紀の文化の変動は、上から下への、つまり知の殿堂であり発信の源であると思われた大学アカデミズムから始まるのではなく、下から上への、つまり卑しいとされた職業の現場からの、経験による知と実践を重んじ(過日の文書で得た知に現実を強引に合わせるのではなく)、そして、すでに国を失った言語(ラテン語)ではなく、それぞれの国、それぞれの現場の俗語(伊語、独語、仏語等々)による知の蓄積によってこそ、興りえた。

ルネサンスの「知」の原動力の中心は、従来から言われている上(大学アカデミズムや人文主義者)にあったのではなく、下(芸術家、外科医、商人、技術者など)にあった、とする「視座」。
この下からの変動に引きずられるようにしながら、上のほうもその変革を余儀なくされていく。
これは別の言い方をすれば、それぞれの分野、業界はその筋の専門家によって変革・変動したのではなく、非専門家の現場からの助力に支えられて変革・変動していった。

画術関連でも、それを書き残してくれているのは、多くは貿易商、医者、法律修士、画商といったいわば画術には素人の人々だったことも忘れるわけにはいきません。

この書で面白い視点だと思えたもののひとつは、ダ・ヴィンチとデューラーが書き残したもの(即ち一方は「手稿」で、他方は当時流行の「活字印刷」で)の、その形式の違いの背景を述べているところでした。そして、その違いによってそこに内在する「知」がどうなったのか、ならなかったのか‥‥。

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画家とパトロン(依頼主)との間で交わされた契約書に関する史料を「画術にまつわる文献 04」でご紹介しましたが、最近は、契約書に見られる特定の顔料や意匠の条件のみでなく、もっと直接的に画家のアトリエの備品はどこからどうやっていくらで入手されたのかという具体的な考察も随分盛んになっているようです。

イリス・オリーゴ『プラートの商人』白水社1997年という本が出ています。
この商人とは、フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ。一代で築いた莫大な財産を引き継ぐ子に恵まれずに、全財産を巧妙に貧しい人々のために寄付するのですが、それとともに遺言で彼の家や文書(私信、商売上の記録等)もそっくり残された。この残された文書の史料価値が非常に高く、多方面に研究がなされていることをご存知の方もおられるでしょう。

今回ご紹介しようとするのは、実はその文書のことではありません。彼が寄贈した建物に残されていたある文書類についてです。

その建物は、Ospedale degli Innocenti (インノチェンティ捨児養育院)。
既に日本でも、ここの史料をもとに書かれた、

○高橋友子『捨児たちのルネッサンス  15世紀イタリアの捨児養育院と都市・農村』名古屋大学出版会

がありますし、この養育院の概略を知るには

●前之園幸一郎『捨て子養育院の創設とその発展について』青山學院女子短期大學紀要Vol.49(1995) pp. 77_a-53_a.

●前之園幸一郎「『プラートの商人』:フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニとインノチェンティ捨て子養育院の成立」青山学院女子短期大学総合文化研究所年報 Vol.6(1998) pp. 161-180.

等の論文もあります(CiNiiで公開されています)。

また、この養育院の全貌を知るのに有益な書としては、
● Sandri, Lucia(ed), Gli Innocenti e Firenze nei secoli. un ospedale, un archivio, una città, Florence; Studio per Edizioni Scelte, 1996)

があり、特に注目されるのは、二論文、すなわち
 ●Dini, Bruno, La ricchezza documentaria per l'Arte della Seta e l'economia fiorentinanel Quattrocento, pp. 153-178.
 ●Richard A. Goldthwaite, L'arte e l' artista nei documenti contabili dei Privati (sec. XV), pp. 179-188.

前者には15世紀フィレンツェの絹製造の工程などに関する言及があり、後者では、簿記資料に見られる芸術家のことや芸術家と銀行に関する記述などについて言及されている。
文書庫には、異なる3つの薬剤店(Speziale all'Insegna dell'Unicorno、Speziale all'Insegna dells Calonna 、 Speziale al Giglio)の、ほぼ90年に及ぶ50冊近くの会計簿が含まれ、3番目の分が最も多いのだそうだ。
ただ、美術史に欠かせない史料であるとの指摘はあるものの、具体的な考察はしていない。

一方、
●The Art Market in Italy (15th-17th Centuries). Il mercato dell'arte in Italia (secc. XV-XVII)
atti del convegno (Firenze, 2000), a cura di Marcello Fantoni, Louisa C. Matthew, Sara F. Matthews Grieco, Modena, Franco Cosimo Panini, 2003 (Istituto di Studi Rinascimentali Ferrara - Saggi) 

に収められた論文

●ジュリア・A.デランシーの「きりん血とウルトラマリン:ルネサンス・フィレンツェの薬剤店と美術家用顔料」pp. 141-150.

では、その簿記に残された内容についてかなり具体的な考察がなされている。

この関連で、来年度に、キャロライン・ビレールに捧げられた、2005年度会報の公刊が某サイトで予告されているが、その暫定目次から、私には非常に魅力的な一冊になりそうだ。もし機会があれば、ご紹介したい。


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この番外編の最後の話題として、こちらで御紹介し、又、他のサイトでさらに突っ込んでお話した、「ゲッソ・グロッソは主に無水石膏」のその後について少し触れておきます。

●ロドヴィーコ・ドルチェ『アレティーノまたは絵画問答−ヴェネツィア・ルネサンスの絵画論−』森田義之・越川倫明 中央公論美術出版2006年

の「訳者あとがき」で『五浦論叢』の存在を知り、インターネットで調べていて見つけたのが以下の論文です。

●大竹秀美「イタリア中世板画の金地技法」『五浦論叢』第10号(2003), pp. 101-119、11号(2004), pp. 1-21. 副題は「中世初期におけるボーロを使用しない技法」。

第10号で「ゲッソ・グロッソ」に言及されており、「無水石膏」説の方を許容する内容になっています。

但し、既に他のサイトでも述べたところですが、ヴェネツィアでは、二水石膏が基本でした。


.昔の技法書/手記 全般 (5)」へ続く。


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