超解読!はじめてのカント『純粋理性批判』
私もかつて学生時代に哲学書を読もうと試みたことがありましたが、難解な本が多くて挫折したものです。けっこう、かなりに熱意を持って理解しようとしてみたはずではあったのですが・・・。一昔前の解説書、入門書は酷いものが多かったと思います。いいものもありましたが、大半はそれはそれはもう・・・。そして、原書も今思うと単に難解だったというより、どうも翻訳も無駄に読みにくい感じに訳してしまう傾向があったように思います。それを差し引いても哲学書は一般的に難解で、そして分量も多いというのが常ですが、そもそも哲学書は優れた講師の授業とセットで成り立つものなのかもしれません。日本だと、哲学専攻でない限りは、偶然そういう講義を受講できた場合に出会えるという類いのものと言えるでしょう。けれどもやはり洋画専攻としては、西洋人的には西洋哲学はベースの教養としてあるのだろうな、という面もいろいろ感じることがあるわけで、教養としても捨て置けないところあるのではないかという気はします。まぁ、私としては存在論に関心が高くて興味津々だったわけですが。

哲学入門にはよい導き手が絶対不可欠であろうと思います。しかして、最近の哲学入門書は非常に解りやすくなっているということに気が付いてここにきていろいろ読みあさっています。もちろん今でも駄目な入門書はいっぱいあります。特にマンガ化系は総じてちょっとどうかなというのが多かったです。酷いときには書物の内容では無くて、ほとんど著者の人生を描いただけみたいなものもあり、伝記マンガとして売るならともかく、書物をマンガ化したと騙って売られているので注意して欲しいところです。かりにコンパクトにまとめられていたとしても、哲学書の場合はあまり簡単にわかるようにしてもいけないところがあります。結論も大事ですが、そこに至るまでの工程とか考えみたいなものも非常に重要な役割を果たしているものなので、大著をそれなりに追っていく感じも必要かと思います。というわけで、最近買ったの中で特によかったのが、竹田青嗣(著)超解読!はじめてのカント『純粋理性批判』です。難易度のバランスが最高と言えるでしょう。というようなことは、素人の私に判断できることではないのですが、でも書評を見てもそんな感じです。こうやって触れてみると、カントの方はけっこう明快な理論ですよね。たぶん昔からある訳語のせいで損している部分もあるかと思います。内容を簡単に言えば、物が存在するといういかなることか、存在の原因となる絶対者は居るのか、そのような存在論の重要なテーマを人間の認識力で理解することができるのか、論じることが、あるいは証明することが可能なのか、ということを検証するというか、言い換えると何処までが人間の認識が扱える範囲かというの検証している、という感じの内容ですが、その工程とか結論には同意できるところとそうでないところかいろいろあるかと思います。しかし、後の世からこうしてみると、その後の存在論の展開とかどばっと出てきそうな感じになってるような気がするのは気のせいでしょうか。他にもいろいろい買っているので、徐々にレビューしていきたいところですが、同時にやはり存在論について私見も述べていきたいと思います。私は別にそんなことを述べる程の人物ではないのですが、しかし、常々思うのですが、日本の洋画家に限れば、存在の驚異を描けているのは岸田劉生ただひとりなのではないか、という持論について検証していきたいところです。



| 書籍・雑誌・漫画・アニメ | 11:36 PM | comments (0) | trackback (0) |
読書:『パウロ 十字架の使徒』『中世ヨーロッパの城の生活』
青野太潮(著)『パウロ 十字架の使徒』
新約聖書を構成する文書の多くを占めるのがパウロ関連の文書であり、ユダヤ教の一宗派であったキリスト教を世界宗教にさせたとも言われるくらいの人物であるが、実際にはどんな役割を果たしたのか、というのが気になって読んでみました。私などは、新約聖書に収録されている文書のうち、福音書はともかく、たくさん収録されている「手紙」の方はあまり関心を払っていなかったのですが、本書を読んでみたら、それらの手紙文書が極めて重要な役割を果たしていたというのを納得することができました。パウロがなぜ精力的に布教活動をしたか、あるいは自分の教義を語らなければならなかったのか、それも納得できたように思います。これは目から鱗というか、ちょっとキリスト教への見方がだいぶ変わった気がするのだけれども、それについてちょっと語りたいという気もするけれども、それはとりあずもうちょっと他の書籍に読んでみてからにしようかと。読みやすい文章で書かれているものの、新約聖書のうちでパウロ文書に重点を置いて書かれているので、先に聖書全体の成り立ちについて書かれた本(加藤隆『『新約聖書』の誕生』等)を読んでおくことをお薦めします。

ギース夫妻(著)『中世ヨーロッパの城の生活』
先日読んだ『大聖堂・製鉄・水車』に続き、こちらも読んでみましたが、単に城というだけでなく、中世全般の様々な分野についてたいへん勉強になりました。たった一冊読んだだけで、それはもういろんな知識を仕入れられたように思います。それを列記していく時間は今ちょっとないんですが。なお、城について語っているだけあって、中世の各国の王の名前などある程度知っていた方が読みやすいと思います。世界史の勉強大事ですね。まぁ、中世は飛ばされそうな箇所ですが。

| 書籍・雑誌・漫画・アニメ | 10:34 PM | comments (0) | trackback (0) |
『大聖堂・製鉄・水車 - 中世ヨーロッパのテクノロジー』
以下の本を読みました。
ジョゼフ・ギース/フランシス・ギース(著)『大聖堂・製鉄・水車 - 中世ヨーロッパのテクノロジー』
中世に関する書物の中でも読みやすく、そして面白い、と評判の本です。この他にも中世について書かれた同著者の本が多数出ていますが、一応買ってはいるもののようやく読み始めたような感じです。本書は、中世のテクノロジーについて語られていますが、中世初期から晩期にかけて非常に長い期間を一気に駆け抜けており、なかなか疾走感があります。詳しく書いたらきっと上中下3巻構成になると思います。技術的な説明は、文章だけで読んでいるよくわからない箇所も多々あるのですが、そういう単語はgoogleで画像検索しながら読み進めると、なるほどこれのことかと理解が捗ります。しかし、私としてはやはり駆け抜けてすう感じがどうしてもするので、思わず、気になった箇所にかんする本を注文していたりするうちに1万円ぐらい使ってしまいました。中世に関する先入観みたいなものをいろいろ覆される書です。最も感心したのは、大航海時代の原料動力ともなったとされる「香辛料」、これは一度肉に胡椒などの香辛料で風味付けしたらそれなしではいられずに胡椒を求めたとか、肉の保存に必要になったとか、それで法外な値が付き、それを求めて航海に出たなどとよく説明されたりしますが、本書によればそも思い違いだそうで、単調な食事をしていた庶民は香辛料を買えるような余裕はなかったし、香辛料を買える層の食事はもともと単調どころではなかったわけで。そして、・・・フィレンツェの商人フランチェスコ・バルドゥッチ・ペゴロッティが記した『商業の実践』には、一四世紀に商品として扱われた二八八種の「香辛料」が列挙されている - アニス、シナモン、クミン、ジンジャー、クローブ、ナッツメグ、コショウ、砂糖、ウイキョウ、鑞、ミョウバン、ローズウォーター、綿糸、ダマスカスの紙、糊、象牙、インディゴ、乳香、シェラック、麝香、亜麻仁油、硝石、ソーダ灰、石鹸、テレビン油、ヴェネツィアの銅、マチン、金箔などである・・・とありますが、こうなると、織物、穀物などを除けばほぼ全部「香辛料」ではないか。
という具合で読んでいて面白いのですが、ただ、気になる点もあります。例えば絵画技術について語っている箇所ですが「・・・油絵具は一二世紀の司祭テオフィルスの著作に登場するものの、亜麻仁油を精製して作る揮発性溶媒が主にヴェネツィアで開発されるまでは、卵をベースにしたテンペラ絵具が全盛であった。顔料と精製油を混ぜると、きわめて反応のよい絵具ができた。はやばやとそれを利用したのがブリュージュのファン・エイク兄弟やイタリアの画家たちだ・・・」とありますが、微妙に意味がはっきりしない文章です。まず亜麻仁油のような油脂を精製して揮発性溶媒ができるだろうか、これはちょっとわかりません。少なくとも油脂を蒸留で分離というのはできなかったと思います。これは松脂を精製してつくるテレピン油を言っているのかもしれません。となると、「顔料と精製油と混ぜると、、きわめて反応のよい絵具ができた」、この文章の意味ですが、搾油した油脂を精製あるいは加工して使えば確かに反応(乾燥)のよい絵具になりますが、前文を見ると揮発性溶媒のこととも思われます。そうするとファン・エイクがテレビン油を使ったと言い切ってしまうことになり、そして同時に油彩画発生のトリガーがテレビン油だと言い切ってしまうことになります。あと、ファン・エイク兄弟と同列にするほど、イタリアの画家たちは「はやばや」とそれを利用したのだろうか、という点とか。

西洋絵画とは何の関係もありませんが、以下の本も読みました。
白石太一郎(著)『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』
歴史学者ではなくて、考古学者が書かれた本です。日本列島が古墳時代に入ろうとする頃の傾向として、地域差のあった列島の土器が、庄内式土器(土師器の初期または前段階)という同じようなものに一斉に換わります。また、九州から東北中部まで。弥生時代は環濠集落と言って、周囲に防衛用の堀を巡らした集落が一般的だったのが、その環濠が一斉に見られなくなる。日本海側の一部地域では、埋葬儀礼などに共通の習慣が見られるようになり、既に連合的なものが形成されていたと思われるが、近畿地方に最初の前方後円墳が登場すると、ほぼ列島全体が前方後円墳を作り出す。この前方後円墳が出現しようという時期が、魏志倭人伝の邪馬台国の時期ということを考えるとさすがに九州説は厳しいなと思わずにおれません。そして、その後も前方後円墳体制といえるものが非常に長く続き、更に大きく、そして列島中にものすごい数が作られます。道路網みたいなものがほぼ無い頃からと考えるとなかなかすごい事かと。前方後円墳は継体天皇以降も作られ続けるのですから、邪馬台国的なものの時代から、基本的な体制自体は連綿と続いていたのだと古墳は語っているように思われます。邪馬台という当て字みたいなものがどのくらい当時の音声を反映しているのかはわかりませんが、連合の中心地もその頃から”やまと”っぽい名前だったとも考えられます。個人的には倭人伝とか邪馬台国がどうとかは私はあまり関心がなく、ただただ土器の様式や、前方後円墳の分布状況などが、当時の状況を物語っていると思うのです。ここからは私の考えですが、文字とか紙とか文書とか、宣誓書とか契約書みたいなものがない時代だとしたら、前方後円墳を作り、同様の儀式を行なうという行為がヤマト連合に加わるという契約書代りになったのかもしれません。契約書みたいに定期的に作っていたから、全国にこれほど多くの前方後円墳が残されるに至ったのではないかと。町中に著名人の銅像が立っているウィーン市では、冗談で人口の半分が銅像だと言ったりしますが、日本の場合は人口の半分が前方後円墳だと言えるでしょう。というのはさすがに言い過ぎですが、倭国の人口の半分はハニワである、という冗談ぐらいは言っても差し支えなさそうな気がします。

| 書籍・雑誌・漫画・アニメ | 12:02 AM | comments (0) | trackback (0) |
Vol.32 Leonardo da Vinci:Pupil,Painter and Master
National GarellyのTechinical Bulletin、なんとなく定期的に買ってはいるものの、熱心に読んだものもあれば、ページを開きもせずに放置しているものもあるという状態です。思うに、最初から最後までしっかり読まねばならないとか思うからいけないのでしょう。
 National GarellyのTechinical Bulletin
適当にパパッと目を通して、大意を掴めればそれでいいというくらいの気持ちになるべきなのがいいんじゃないだろうか的に考えなおして、改めて読み始めようと思いました。実は講師の仕事の時間割の都合で、授業の合間に3時間ほど暇な時間ができてしまったので、その時間を活用しようかなと・・。いや、というか、なんか最近いまいち活力がないというか、やる気が起こらないのですが、せめてこういうときは本くらい読んでたら、時間のロスも多少はカバーできるような気がしないでもないように思ったのですが、いずれにしても1冊6千円くらいするものなので、ちょっと気合いを入れて読んでいきたいと思います。ちなみに、現在はPDFで公開されており、わざわざ買うこともないのですが、なんとなく惰性で買ってしまっています。実はこのあおりで、かつてはプレミア価格がついていた古い号も手が届きそうな値段に変わってきており、それらも買ってしまいそうで心配なのですが・・・。

とりあえず目を通してみたのは、Vol.32 Leonardo da Vinci:Pupil,Painter and Master
 National GarellyのTechinical Bulletin
いくつかの作品について書かれていますが、だいたい大ざっぱに概略を述べれば、パネルの上に地塗りは伝統的な二層のジェッソ(ジェッソグロッソとジェッソソティーレ)、そして下絵(ドローイング)はどうも2回やるのがレオナルドの特徴らしい。はじめに線的なドローイング、その上に油の含んだインプリマトーラ、これは鉛白をたっぷり含んでいるようで、現在は鉛白の鹸化により当時より透明化が進んでいると思われるが、それを考慮しても、当時も初めのドローイングは透けて見える程度に塗ってあり、その後、2回目のドローイングとなるが、これは太めの筆で行なわれ、茶系のモノクローム画風に描かれたようである。カマイユと言われる感じであろうか。顔料に関してはかなり克明に記述されている。メディウムに関してはhear-bodied walnut oilと書かれていることが多い。これは本書の後半で扱われるレオナルド以外の作品でもだいたいそうである。イタリアの画家がWalnut oilを使うのは普通のことであるけれども、個人的に助剤となる成分、樹脂とか松脂とか、そういうのが気になるのだけれども、顔料と比較してメディウムに関することは本書ではそれほど克明には書かれていないようです。後半はダ・ヴィンチ以外の作品について書かれていますが、その中の1点でパネルについて書かれている箇所が面白く、イタリアの作品なのでポプラであるが、板材の切り出し方はtangential cut(対義語はradical cut?)であるが中心に近いもので、vertical grain(対義語はflat grain?)である模様。最初何言っているかわからなかったけど、英語ではこんなふうに言うのか。

| 書籍・雑誌・漫画・アニメ | 10:47 PM | comments (0) | trackback (0) |
アンドリュー・パーカー(著)『眼の誕生 - カンブリア紀大進化の謎を解く』
以下の本を読みました。
アンドリュー・パーカー(著)『眼の誕生 - カンブリア紀大進化の謎を解く』

カンブリア爆発が発生した原因を、生物の眼の獲得にあると論じた本です。生物の進化、特にカンブリア紀などはそれだけでも読んでいて面白いものですが、それとは別に視覚というものについて違った視点から考えることができて興味深い体験でした。われわれは色彩豊かな世界で暮らしていますが、そもそも色、言い換えれば光(可視光線)は電磁波の一種であり、わずかな波長の違いによって、赤や青などに変わり、それを眼で捕らえて色を認識しているわけです。太陽から降り注ぐ白い光は全ての波長を含んでいますが、赤い物体に当たると、赤以外の波長は吸収され、赤だけが反射してくるので、それが人間の眼の届き、赤だと判断できるわけです。しかし実際は赤い色などは存在せず、人間の脳内でその波長を赤に変換しているだけなのです。「・・・眼がこなす第三の妙技は、波長がわずかづつ異なる光波をそれぞれ違った色に変換することである。したがって、眼を持たない動物には、そもそも環境中に色などというものは存在しない。難しいことかもしれないが、ちょっと想像してみよう。どこにいたとしても我々を取り巻いているすばらしい色彩の世界は、じつはいっさい存在していないという事実を。環境中には色など存在していない。存在しているのは、たまたまぶつかってきた各種の電磁波を屈折偏光させている物体だけなのだ・・・」ある意味ホラー小説より背筋が寒くなりそうな内容ですが、それだけに一気に読まずにはいられませんでした。

| 書籍・雑誌・漫画・アニメ | 10:23 PM | comments (0) | trackback (0) |

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