2021,04,28, Wednesday
美術鑑賞に役立つようにという意味で最近、福音書を読んでいたのですが、福音書をしっかり読んでみたら、マタイ受難曲を聴くのがとても面白くなる、という副次的な効果がありました。マタイ受難曲は印象的な大曲なので、クラシック音楽愛好家なら聴き慣れた存在であるかと思うのですが、内容について文学的に感動している人は実は少ないかもしれません。イエスの受難の流れがわかっているので、現在どのような場面でというのはよくわかるということと、その場面にどのような重要性があるのかわかることにより、特に福音史家やバスによる登場人物の台詞、言い換えれば聖書からの引用部分が急に面白くなるのです。受難曲に「面白い」という表現は変ですから、「感動する」ということに置き換えた方がいいのかもしれませんが、感動とか単純な言葉では表現できないような興味深さと言いますか、キリスト教的に表現すれば目からウロコが落ちるという感じでしょうか。マタイ受難曲はずいぶん聴いてたはずなのですが、自分は何も見えていなかったのだ、というのは痛感しました。比較的地味な存在かと思っていた福音史家の台詞(テノールによる伴奏付のオペラ風の台詞)が実は大事であったのかもしれません。そこからバスの台詞や、嘆きの歌詞が歌われるという流れでないと、どの場面もただひたすら嘆き悲しんでいるだけの歌詞になってしまいますから、なかなかすぐに共感でるというものではないであろうかと。私はリヒター指揮、ペーター・シュライアーが福音史家というDVDで見返しましたが、日本語字幕付なので台詞の和訳がでてくるのですが、そのようなDVD媒体で視聴するのがいいのかと思われます。
でもかつては、レコードかCDで聴くものであったわけです。CDで聴く場合、長大な曲なので、抜粋版のCDで聴くというのが最も一般的な視聴方法であった時代も多かったのではないでしょうか。私は急に気になって、さっそく仕事帰りに図書館へ寄って、マタイ受難曲の抜粋版のCDを5種借りてきました。しかしその中では福音史家とバスの部分を重視して文学的に選択しているCDはグラモフォンのリヒターのCDだけのようでありました。これは1958版、かつて定番中の定番と言える録音だったと思うのですが、福音史家はシュライアーではありませんが、でもちゃんと複音史家およびバスでの登場人物の台詞など、聖書的要素を含めて抜粋していあるので、その点では配慮の行き届いたCDであるのかもしれません。その後の年代の抜粋版CDは福音史家部分が全くないものまでありまして、音楽的には美しいかもしれませんが、文学的には伝わらないような気がするわけです。と言っても、マタイ受難曲については、私はまだまだ知らぬことが多いので、こうして語るのは早すぎるのですが、マタイ受難曲について論じた本は多いので、1冊注文しておきました。それからバッハにはヨハネ受難曲もあり、これも以前から何度も聴いてきた曲ですが、ヨハネの福音書をよく読んでからまた聴いてみたいというのと、受難曲はバッハ意外の作曲家のものもありますし、そちらも開拓してゆきたいということで、世界はまだまだ広大でありますな。 ところで、私は学術的な翻訳の福音書を読んでいたわけですが、新共同訳聖書も一冊欲しくなってきました。とても柔らかい口語訳的な本文であり、やはりなんだかんだで読みやすいと言えます。が、出版されている本の種類が非常に多くてどれを買ったらよいものか迷って注文ボタンがなかなか押せず。5冊くらいに分冊された分割版というのが、手に持ってページをめくりやすくて良いかなと思ったのですが、でも、聖書を読むときは引照付きでないと、聖書内の他の文書との関連がわからないので、はやり引照版を買った方がいいのだろうか。しかし引照版は紙面がごちゃごちゃして見づらいし、実際に参照したりなどもまずしないなど、考えれば考えるほど悩ましいところです。 |
2021,04,12, Monday
聖書をしっかり読んでみると、西洋絵画の各場面の感動がより深いものになります。あるいは絵画を見ているから聖書も感動的に読めるところもあるかもしれませんが、まぁ、両方が相互作用するのでありましょう。美術鑑賞のうえで、聖書を読んでおくべきかどうか、というのはなかなか悩ましい問題です。興味があるならば、読んでおいた方が断然よろしいでしょう。画集の解説文などを読むだけでは、その美術品から入ってくる情報量は圧倒的に少ないといえます。対象となる美術品が作られた時代でも異なるでしょう。例えば中世の修道院内で作られる写本装飾画ならば、相応の読み解く知識がなければ、ほぼ素通りしてしまうであろうと言えますし、バロック期の大衆に訴える劇的な大作ならば、あまり知らなくても、そこから内容に関心を持つような意図であったと考えれば、それもまたありでしょう。キリスト教徒ですら聖書を全て読んでいるとは限らないのですが、そもそも聖書がラテン語で聖職者だけが読めた時代も長く、その為に図像があったと考えれば、まぁ、知らない状態で、解説を聞きながら見るというのも、それはそれでいいですし。それにしても、解説などを読みつつ精読してみると、マルコ、マタイ、ルカの違いはたいへん興味深いもので、どうしても、それぞれの違いを確認しなくてはいけないような気になってしまって、なかなか先に進まないというところもあります。重複するエピソードの箇所でも微妙な違いで考えたが違うのだというところが多々あって、このようにスタンスの異なる福音書が併存しているというのは、なんとも面白いことであり、それについて考えているだけで、時間が吸い取られてゆく感じあります。さらに新約聖書を読んでいると、旧約聖書からの引用(かなり自由な引用)が非常に多いので、旧約も精通していないとやはりわからぬことも多いと言えます。旧約を通して読んだことがあるという人はどれくらいいるでありましょうか。私が目を通した旧約は、ずいぶん前に読んだ講談社「聖書の世界(旧約/新約)」全6巻なわけですが、記憶が曖昧になってきていると言いますか、そもそもその頃は内容を理解できず、記憶に留めるのも難しかったし、そもそも敷衍訳だったと思うので、改めて読み直したいところであります。聖書意外にもウォラギネの黄金伝説とか、読まねばならぬものをあげると切りがありませんが、とりあえず、聖書は基本であろうか。西洋絵画のギリシア・ローマ神話の部分は、ホメロス(またはウェルギリウス)を読んでいるかで面白さというか、親近感的なものがだいぶ違うような気がしますし、キリスト教絵画についてはやはり聖書は大事といいますか、聖書との相互作用的な感動作であるのではないかと考えているところです。
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